多くの事件を引き起こした「日本赤軍」の元リーダーとされている重信房子氏。2022年の今、どうなっているのか?これまでどのような人生を歩んできたのか?など、気になることをまとめてみました。
重信房子氏の現在
重信房子氏は、2022年5月に20年の刑期を終え、出所しました。
出所時には、娘や支援者に出迎えられ
「50年前、人質を取るなどして見ず知らずの人たちに被害を与えたことをおわびします」などと反省の弁を述べています。
服役中はがんを患い、度重なる手術を経験し、生きて出所することも危ぶまれる状況だったようです。
今後はがんとの闘いを続けながらも、好奇心を持って生きていきたい、としています。
76歳という年齢になっても、なおその存在や行動に様々な意見が飛び交い、
注目される重信房子氏はどのような人物なのでしょうか。
重信房子氏の経歴
大学入学後に活動家となる
1945年、東京・世田谷に4人兄弟の次女として生まれた重信房子氏は
1965年に明治大学(夜間部)入学後、当時盛んだった学生運動(学費の値上げや制度改革などに学生が反発してデモを起こす)に出会います。
当初は学費の値上げに反対していただけでしたが、しだいに資本主義社会に疑問を抱くようになりました。
そして、過激な共産主義者の道を歩み始めます。
「日本赤軍」を結成
「日本赤軍」は、共産主義による世界革命を起こそうと考える過激派の「赤軍派」から分かれてできた組織です。(1971年)
重信房子氏などが中心となり、海外に活動拠点を求めて中東レバノンに渡り結成しました。
出国の前には、同じ日本赤軍メンバーとなる奥平剛士(おくだいら・つよし)と便宜上入籍し
重信房子氏は、戸籍上「奥平房子」となっています。偽装結婚だったと言われています。
出国後は「革命運動」を大義名分として、レバノンを活動拠点にして軍事訓練などに行っていました。
このころ、パレスチナ解放人民戦線にも参加しています。
「日本赤軍」による事件の数々
「日本赤軍」は、いくつかのテロ事件を起こしています。
1972年 テルアビブ空港銃乱射事件
1974年 ハーグ事件
1977年 日航機ハイジャック事件(ダッカ)
1972年のあさま山荘事件は「連合赤軍」が起こした事件で、事件後に活動方針や思想の違いから「連合赤軍」と「日本赤軍」は決別しています。
潜伏していた大阪で逮捕
重信房子氏は、1974年のハーグ事件に関与したとして指名手配を受けていましたが、逃亡を続けていました。
そして、日本に戻って潜伏していた大阪で2000年に逮捕されました。
服役中の2008年頃には大腸がんなどが見つかり手術をし、獄中で闘病生活を送ることになります。
娘はジャーナリスト
重信房子氏には、「重信メイ」(1973年生まれ)という娘がいます。
父親は、パレスチナ人の活動家だと言われています。
重信房子氏の娘と知られれば命を狙われるため、幼いころから国籍も持たずに難民キャンプなどを転々として育ちました。
無国籍の状態は28年続き、2001年3月にようやく日本国籍を得ています。
現在はジャーナリストとして活動しているということです。
まとめ
以上、重信房子氏の現在や経歴についてまとめてみました。
出所したときには、まずは現代の社会に慣れることから始めなければいけないと述べていた重信房子氏。
彼女の目に、この20年間で変化した日本国内や世界はどのように映ったのかは想像するしかありません。